パラグラフテキスト |
山下惣一さんは1936年に佐賀県唐津市の湊地区生まれ。農家の6代目として生まれ幼い頃から田んぼや畑の仕事を手伝ったという。当時は自給自足型の農業だった。中学生になり、農村の暮らしに強い反発を感じるようになる。生徒会長を務め成績も良かった山下さんは高校への進学を強く希望していた。しかし父は許さなかった。進学を断念後、2度の家出を経験したが家に戻りしぶしぶ農家を継ぐことになる。この頃、戦後復興を成し遂げた日本は輝いていた。1960年、所得倍増計画を発表する。経済は成長しサラリーマンの収入も増加し農家との格差は開くばかり。1961年、農業を近代化し農家所得の向上を図る農業基本法が制定される。新たなスローガンとして選択的拡大が掲げられた。自給自足型農業を辞め換金作物を選択し規模を拡大し利益をあげるもの。機械化を進め、化学肥料や農薬を使用し収穫量の大幅アップを図る。当時、25歳の山下さんはこの手法に疑問を感じていた。農業基本法が制定された年、結婚した。山下さんが選んだのはみかん。西日本各地でみかんを奨励する講演会が開かれた。みかんの木は一人前に成長するまで約10年かかる。ようやく本格的な出荷ができるようになったとき、山下さん一家に苦難を襲った。それは生産過剰となったみかんの価格が暴落したのだ。農業基本法が制定され20年、山下さんが暮らす集落に衝撃的な事件が起こる。死米が出た土を掘り調べてもらうことにした。この田んぼでは化学肥料に頼り切り昔ながらの手法をやらなくなッタ結果、土の中の微生物が極端に少なくなっていた。土が固くなり稲の根っこが張っていなかった。死米発生は各地で報告されている。その頃、日米農産物交換を行っていた。農産物輸入自由化が日本は農業自由化の波が押し寄せていた。山下さんの物語が原作となりドラマ化された。農産物の輸入自由化を問う討論会に山下さんは農家として参加した。1988年、日米オレンジ交渉が決着する。山下さんはみかんの木を切ることにした。山下さんはタイ・イサーン地方へ旅に出た。タイには失敗し土地を奪われる農民が続出していた。農民が交流し学び合うための立ち上げた。 |