番組詳細
TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20240622 > エピソード: 1724178
エピソード情報
放送局 | NHK総合 |
---|---|
プログラム名 | NHK映像ファイル あの人に会いたい |
エピソード名 | アンコール 野見山暁治(画家) |
カテゴリ | 教育教養 |
放送時間 | 2024-06-22 05:40:00 〜 2024-06-22 05:50:00 |
WireActionデータ更新時刻 | 2024-06-22 07:46:37 |
コーナー・トピック・パラグラフ
(オープニング)
[corner=15261454]
オープニング
[topic=22645843]
詳細
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05:40:00
-
05:40:23
]
23秒
詳細
オープニング映像。
オープニング映像。
(NHK映像ファイル あの人に会いたい)
[corner=15261455]
野見山暁治(画家)
[topic=22645844]
詳細
[
05:40:23
-
05:44:33
]
250秒
詳細
野見山暁治さんは画家で大胆な筆使いと色彩で、独自の画風を気づいた。戦没した画学生の遺族をまわり、その作品を夜に出すことにも尽力した。野見山さんは大正九年に福岡県で生まれ、家は炭鉱業を営み、石炭採掘語にできるぼた山が遊び場だった。幼い頃から絵ばかり描いていたという。跡継ぎにと臨んでいた父親に画家になることを反対されたが画家を目指し上京。昭和13年に東京美術学校に入学した。手当たり次第沸を描くが時代は戦争へと向かっていった。学校を繰り上げ卒業すると旧満州に出征。しかしその後肺の病に倒れた。国内で終戦を迎えると、再び絵を描き始めた。その後展覧会で次々と作品を発表した。昭和27年31歳の時に妻を日本に残しパリ留学へ。西洋絵画に触れ、その表現手法を貪欲に吸収していった。そして数年後妻をパリに連れてくるがその一年後に病死。野見山さんは失意にくれた。
野見山暁治さんは画家で大胆な筆使いと色彩で、独自の画風を気づいた。戦没した画学生の遺族をまわり、その作品を夜に出すことにも尽力した。野見山さんは大正九年に福岡県で生まれ、家は炭鉱業を営み、石炭採掘語にできるぼた山が遊び場だった。幼い頃から絵ばかり描いていたという。跡継ぎにと臨んでいた父親に画家になることを反対されたが画家を目指し上京。昭和13年に東京美術学校に入学した。手当たり次第沸を描くが時代は戦争へと向かっていった。学校を繰り上げ卒業すると旧満州に出征。しかしその後肺の病に倒れた。国内で終戦を迎えると、再び絵を描き始めた。その後展覧会で次々と作品を発表した。昭和27年31歳の時に妻を日本に残しパリ留学へ。西洋絵画に触れ、その表現手法を貪欲に吸収していった。そして数年後妻をパリに連れてくるがその一年後に病死。野見山さんは失意にくれた。
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05:44:33
-
05:49:48
]
315秒
詳細
それ以降画風は変化し、抽象ではなく野見山さんがあくまで感じたことを絵にしたものだという。妻の最期を綴った著作を発表すると、執筆活動でも注目を浴びた。1964年に帰国すると野見山さんは東京藝術大学などで教鞭をとるように。その頃積極的に取り組み始めたのは戦没した画学生遺族を訪ね歩きその作品に光を当てることだった。その作品を集め、設立に協力した長野県の無言館に収められている。また1978年には日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。野見山さんは東京と福岡に構えたアトリエを行ききしながら創作活動を行った。ある証言という作品はバルコニーが台風で砕け散った様子を描いている。80代後半になり新しいことにもチャレンジ。地下鉄の壁に飾るステンドグラスを共同で制作した。ヘイセイ年には93歳で文化勲章を受賞。100歳を越えても絵に向き合ったという。
それ以降画風は変化し、抽象ではなく野見山さんがあくまで感じたことを絵にしたものだという。妻の最期を綴った著作を発表すると、執筆活動でも注目を浴びた。1964年に帰国すると野見山さんは東京藝術大学などで教鞭をとるように。その頃積極的に取り組み始めたのは戦没した画学生遺族を訪ね歩きその作品に光を当てることだった。その作品を集め、設立に協力した長野県の無言館に収められている。また1978年には日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。野見山さんは東京と福岡に構えたアトリエを行ききしながら創作活動を行った。ある証言という作品はバルコニーが台風で砕け散った様子を描いている。80代後半になり新しいことにもチャレンジ。地下鉄の壁に飾るステンドグラスを共同で制作した。ヘイセイ年には93歳で文化勲章を受賞。100歳を越えても絵に向き合ったという。