番組詳細


TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20240403 > エピソード: 1707684

エピソード情報

放送局 NHK総合
プログラム名 歴史探偵
エピソード名 日露戦争 知られざる開戦のメカニズム
カテゴリ 一般実用
放送時間 2024-04-03 22:00:00 〜 2024-04-03 22:45:00
WireActionデータ更新時刻 2024-04-04 00:36:03

コーナー・トピック・パラグラフ


(オープニング) [corner=15077359]
今回は... [topic=22361960] 詳細
[ 22:00:00 - 22:01:51 ] 111秒 詳細
今回、日露戦争を特集する。開戦に至るまで、両国の認識にことごとくズレが生じていたという。
オープニング [topic=22361961] 詳細
[ 22:01:51 - 22:02:08 ] 17秒 詳細
オープニング映像が流れた。

(歴史探偵) [corner=15077366]
スタジオトーク [topic=22361965] 詳細
[ 22:02:08 - 22:03:53 ] 105秒 詳細
日露戦争が勃発したのは中国や朝鮮などを巡る政治的な対立だと言われてきたが、それだけではないことが浮かび上がったという。歴史を振り返ると、江戸時代末期、ロシア軍艦が蝦夷地を襲撃し、1811年には幕府の役人がロシア軍人を拘束する事件も起きた。
日露戦争 開戦のメカニズム [topic=22361992] 詳細
[ 22:03:53 - 22:14:04 ] 611秒 詳細
イクラはロシア語で魚卵を意味し、いつしか日本語としても定着した。また、北方で獲れるニシン、サケを目当てに日本人がロシアの海域を訪れ、漁業を通じた交流を持っていた。函館ハリストス正教会には日本初のロシア領事館があり、1884年、ロシア正教会の大聖堂の建造が都内で開始された。東京外国語学校ではロシア語の教育もスタート。加えて、明治天皇は年上のアレクサンドル2世を親友と日記で表現している。だが、1891年、訪日していたロシアの皇太子を滋賀県警の巡査がサーベルで斬りつけた。明治天皇は事件翌日には皇太子を見舞うべく京都へ向かい、帰国前にロシア軍艦で行われた会食に出席した。日本中からお見舞いの電報が皇太子のもとに届けられた。皇太子は日記に「善良な日本人に対して、少しも腹を立てていない」と記している。
スタジオトーク [topic=22362016] 詳細
[ 22:14:04 - 22:16:18 ] 134秒 詳細
東京外国語学校でロシア語を学んだ学生の1人に二葉亭四迷がいて、ロシア文学の翻訳も取り組んだ。一方、ロシア人は歌川広重、葛飾北斎ら浮世絵師の作品を収集し、母国に持ち帰った。
日露戦争 開戦のメカニズム [topic=22362023] 詳細
[ 22:16:18 - 22:26:15 ] 597秒 詳細
明治時代、函館山には巨大な大砲が設置されていた。日露関係が育まれた函館はロシアの攻撃に備える防衛拠点となった。1894年、日清戦争に勝利した日本は台湾、遼東半島を手に入れるが、ロシアにとって日本の大陸進出は看過できなかった。ドイツ、フランスを誘い、遼東半島を清に返還するよう圧力をかけ、日本は要求を呑んだ。日本政府としては想定内の事態だったが、国民は激高した。河合敦氏は当時の新聞に着目し、ロシアへの復讐を煽る社説を発表していた。各社は「臥薪嘗胆」をこぞって使い、流行語となった。一方、ロシアは日本をそれほど重要視しておらず、日本への干渉も正式な外交ルートを使っていた。
スタジオトーク [topic=22362053] 詳細
[ 22:26:15 - 22:29:33 ] 198秒 詳細
19世紀、ロシアはオスマン帝国と干戈を交えるなど、注意しなければならない隣国は多かった。一方、日清戦争で勝利した日本からすれば、戦いを意識する隣国というのはロシアだけ。河合敦氏は「ロシアが何か動くと、一挙手一投足がものすごく気になる」と当時の日本について語った。1898年、三国干渉で日本が返還した遼東半島の旅順、大連をロシアが租借した。1900年、北清事変をきっかけにロシアは満州を軍事占領した。日本は1902年、日英同盟を結ぶ。
日露戦争 開戦のメカニズム [topic=22362076] 詳細
[ 22:29:33 - 22:37:56 ] 503秒 詳細
戦艦「三笠」には敵艦との距離を測る測距儀があり、ロテム・コーネル氏は大砲の命中率に大きく寄与すると話す。日英同盟により、イギリスから輸入したものだといい、イギリスからは無線電信機の仕組みも学んだ。開戦に向けた動きかと思われるが、日本外交史を研究する千葉功氏は陸軍元帥の山縣有朋がロシアと協商を結ぶべきと伊藤博文に提言している手紙を紹介。可能であるならば戦争を回避したいという日本政府の外交姿勢が見て取れるという。当時、満州を占領していたロシア軍は撤兵を約束し、当時のメディアは「大局を見て、ロシアと付き合っていくべき」と報じた。だが、ロシアは満州に居座り続け、日本では開戦に踏み切るべきという論調が拡散した。東京大学の教授を始めとする知識人たちも開戦を提言している。河合敦氏は「現代で言うところのインフルエンサー」と評する。
[ 22:37:56 - 22:42:34 ] 278秒 詳細
メディアは開戦に反対する人間はロシアを恐怖する臆病者と侮蔑し、ロシアとの和平を模索していた伊藤博文にも矛先が向けられた。政府としては協商をロシアに提案するが、回答が遅かった。ロシアとしては日本を過小評価し、開戦するとは思っていなかったという。1904年2月4日、明治天皇出席のもと御前会議が開かれ、8日に日露戦争が勃発した。
スタジオトーク [topic=22362153] 詳細
[ 22:42:34 - 22:44:45 ] 131秒 詳細
日露戦争前には恐露病といった造語が生まれたが、ロシアと関わりがあった人間は「露探(ロシアの内通者)」と蔑まれた。佐藤二朗は開戦までのプロセスを知り、「今に通じず話がいっぱいあった気がします」と語った。河合敦氏は「価値観が違うということをわかっておくことが重要」と話す。