番組詳細
TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20230611 > エピソード: 1646191
エピソード情報
放送局 | NHK総合 |
---|---|
プログラム名 | 映像の世紀バタフライエフェクト |
エピソード名 | 選 独ソ戦 地獄の戦場 |
カテゴリ | 教育教養 |
放送時間 | 2023-06-11 00:25:00 〜 2023-06-11 01:10:00 |
WireActionデータ更新時刻 | 2023-06-11 02:59:48 |
コーナー・トピック・パラグラフ
(オープニング)
[corner=14391962]
今回は…
[topic=21320439]
詳細
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00:25:00
-
00:28:33
]
213秒
詳細
現在、世界的に非難されているロシアによるウクライナ侵攻。その侵攻を正当化する根拠としてプーチン大統領が度々引用する戦いがある。第二次世界大戦におけるドイツとソ連の戦い、独ソ戦である。互いの民族を皆殺しにするように叫んだ2人の独裁者、アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンは兵士たちの憎悪と復讐心を煽り、軍事的合理性を失った絶滅戦争を展開。3000万人の犠牲者を産んだその戦いは、まさしく地獄そのものだった。80年を経た今もなお、ロシアは血によって得た勝利の栄光に縋り、ドイツは決して消えないトラウマに苦しんでいる。今回は、憎しみと憎しみが激突した独ソ戦、その殺戮の物語。
現在、世界的に非難されているロシアによるウクライナ侵攻。その侵攻を正当化する根拠としてプーチン大統領が度々引用する戦いがある。第二次世界大戦におけるドイツとソ連の戦い、独ソ戦である。互いの民族を皆殺しにするように叫んだ2人の独裁者、アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンは兵士たちの憎悪と復讐心を煽り、軍事的合理性を失った絶滅戦争を展開。3000万人の犠牲者を産んだその戦いは、まさしく地獄そのものだった。80年を経た今もなお、ロシアは血によって得た勝利の栄光に縋り、ドイツは決して消えないトラウマに苦しんでいる。今回は、憎しみと憎しみが激突した独ソ戦、その殺戮の物語。
オープニング
[topic=21320440]
詳細
[
00:28:33
-
00:29:03
]
30秒
詳細
オープニング映像。
オープニング映像。
(映像の世紀 バタフライエフェクト)
[corner=14391963]
独ソ戦 地獄の戦場
[topic=21320441]
詳細
[
00:29:03
-
00:34:15
]
312秒
詳細
1941年6月22日午前3時15分、独ソ戦はドイツの奇襲攻撃により幕を開けた。ドイツがソ連との不可侵条約を破棄し、突如としてソ連領内に攻撃を開始したのである。北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団からなる総勢330万のドイツ軍は一路モスクワを目指して進撃を開始。同日正午にはモロトフ外相により、ソ連全土に開戦が発表される。ソ連指導者のスターリンはドイツによる攻撃に激しく狼狽し、開戦から11日間にわたり別荘へ引き籠もっていた。不可侵条約を締結し、開戦前日までドイツへ食料や資源を輸出していたソ連が攻撃を受けるなどスターリンにとっては全くの予想外だったのである。こうしたスターリンの思いとは裏腹に、ヒトラーは当初からソ連を攻撃目標として定めていた。、広大なソ連領にドイツ人を移住させ、劣等民族であるスラヴ人を奴隷化するという目標を抱いていたヒトラーにとって、不可侵条約はイギリスとの戦争中に背後から攻められる危険性を排除するための保険に過ぎなかったのである。
1941年6月22日午前3時15分、独ソ戦はドイツの奇襲攻撃により幕を開けた。ドイツがソ連との不可侵条約を破棄し、突如としてソ連領内に攻撃を開始したのである。北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団からなる総勢330万のドイツ軍は一路モスクワを目指して進撃を開始。同日正午にはモロトフ外相により、ソ連全土に開戦が発表される。ソ連指導者のスターリンはドイツによる攻撃に激しく狼狽し、開戦から11日間にわたり別荘へ引き籠もっていた。不可侵条約を締結し、開戦前日までドイツへ食料や資源を輸出していたソ連が攻撃を受けるなどスターリンにとっては全くの予想外だったのである。こうしたスターリンの思いとは裏腹に、ヒトラーは当初からソ連を攻撃目標として定めていた。、広大なソ連領にドイツ人を移住させ、劣等民族であるスラヴ人を奴隷化するという目標を抱いていたヒトラーにとって、不可侵条約はイギリスとの戦争中に背後から攻められる危険性を排除するための保険に過ぎなかったのである。
[
00:34:15
-
00:40:05
]
350秒
詳細
ドイツが進撃を続ける中、1937年の赤軍大粛清によって有能な現場指揮官を失っていた赤軍は開戦から3ヶ月で300万もの捕虜を出す醜態を晒してしまう。開戦のショックから立ち直ったスターリンは状況を打開するため、ドイツとの戦いを「大祖国戦争」と名付けて人民の愛国心を鼓舞する演説を行う。この言葉に応え、530万人もの人々が新兵として志願し戦場へと向かっていく。こうして、開戦から2年で赤軍の総兵力は開戦時の倍となる1000万人を突破した。
ドイツが進撃を続ける中、1937年の赤軍大粛清によって有能な現場指揮官を失っていた赤軍は開戦から3ヶ月で300万もの捕虜を出す醜態を晒してしまう。開戦のショックから立ち直ったスターリンは状況を打開するため、ドイツとの戦いを「大祖国戦争」と名付けて人民の愛国心を鼓舞する演説を行う。この言葉に応え、530万人もの人々が新兵として志願し戦場へと向かっていく。こうして、開戦から2年で赤軍の総兵力は開戦時の倍となる1000万人を突破した。
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00:40:05
-
00:42:30
]
145秒
詳細
破竹の進撃を続けていたドイツ軍が足を止めたのは、1941年10月6日のことだった。初雪が降ったこの日、ドイツ軍は溶けた雪により泥濘と化したソ連の未舗装路によって足をとられたのである。車両はおろか歩兵も満足に前進できず、補給物資を運ぶトラックもスタック。頼みの綱である鉄道も軌道幅の違いによりレールの敷き直しが必要であるためにすぐには走れない。補給物資が届かなくなり、立ち往生したドイツ軍は現地住民から食料を収奪して飢えを凌いだが、この行動はソ連の一般市民にもドイツに対する憎しみを植え付けるものとなる。
破竹の進撃を続けていたドイツ軍が足を止めたのは、1941年10月6日のことだった。初雪が降ったこの日、ドイツ軍は溶けた雪により泥濘と化したソ連の未舗装路によって足をとられたのである。車両はおろか歩兵も満足に前進できず、補給物資を運ぶトラックもスタック。頼みの綱である鉄道も軌道幅の違いによりレールの敷き直しが必要であるためにすぐには走れない。補給物資が届かなくなり、立ち往生したドイツ軍は現地住民から食料を収奪して飢えを凌いだが、この行動はソ連の一般市民にもドイツに対する憎しみを植え付けるものとなる。
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00:42:30
-
00:45:28
]
178秒
詳細
11月下旬、ドイツ軍はモスクワまで30kmの距離に迫っていた。包囲されたモスクワでは市民たちが一丸となって防衛体制を固めていたが、氷点下42度に達する大寒波の到来によりドイツ軍は再び進撃を停止。この間にソ連は冬季戦に精通した極東軍のシベリア師団を招聘し、雪中で孤立したドイツ軍を押し戻すことに成功する。ドイツ軍は後退を続け、1942年1月7日にモスクワ攻防戦はソ連の勝利によって終結した。
11月下旬、ドイツ軍はモスクワまで30kmの距離に迫っていた。包囲されたモスクワでは市民たちが一丸となって防衛体制を固めていたが、氷点下42度に達する大寒波の到来によりドイツ軍は再び進撃を停止。この間にソ連は冬季戦に精通した極東軍のシベリア師団を招聘し、雪中で孤立したドイツ軍を押し戻すことに成功する。ドイツ軍は後退を続け、1942年1月7日にモスクワ攻防戦はソ連の勝利によって終結した。
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00:45:28
-
00:46:48
]
80秒
詳細
独ソ戦の裏でソ連を支援していたのが、フランクリン・ルーズベルト率いるアメリカだった。アメリカは同じ連合国陣営としてソ連に食料や武器を供給していたが、スターリンはこれに加えて連合国の独ソ戦参戦を要求。しかし、ファシズムと共産主義の共倒れを狙う連合国がスターリンの要請に応えることはなかった。
独ソ戦の裏でソ連を支援していたのが、フランクリン・ルーズベルト率いるアメリカだった。アメリカは同じ連合国陣営としてソ連に食料や武器を供給していたが、スターリンはこれに加えて連合国の独ソ戦参戦を要求。しかし、ファシズムと共産主義の共倒れを狙う連合国がスターリンの要請に応えることはなかった。
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00:46:48
-
00:52:13
]
325秒
詳細
一方、モスクワ攻略に失敗したヒトラーは新たな攻撃目標を定める。標的としたのは、ソ連指導者の名を冠した都市“スターリングラード”。工業の中心都市であるこの都市を攻略することで、モスクワへの物資輸送を絶とうと目論んだのである。1942年8月23日、ドイツ軍はスターリングラードへの空爆を開始。1週間にわたる空爆で市街地は徹底的に破壊されたが、赤軍は瓦礫と化した街に潜んでドイツ軍を迎撃。赤軍司令官のワシーリー・チュイコフは市街地での接近戦を展開し、誤爆を恐れたドイツ軍の空爆を封じることに成功した。しかし、この采配は両者ともに予想もしなかった激戦を生むことになる。スターリンは赤軍兵士に「一歩も下がるな!」との命令を下し、部隊の後方に撤退してきた兵士を射殺する督戦隊を配置。この督戦隊により射殺された赤軍兵士は1万3000人に及んだ。
一方、モスクワ攻略に失敗したヒトラーは新たな攻撃目標を定める。標的としたのは、ソ連指導者の名を冠した都市“スターリングラード”。工業の中心都市であるこの都市を攻略することで、モスクワへの物資輸送を絶とうと目論んだのである。1942年8月23日、ドイツ軍はスターリングラードへの空爆を開始。1週間にわたる空爆で市街地は徹底的に破壊されたが、赤軍は瓦礫と化した街に潜んでドイツ軍を迎撃。赤軍司令官のワシーリー・チュイコフは市街地での接近戦を展開し、誤爆を恐れたドイツ軍の空爆を封じることに成功した。しかし、この采配は両者ともに予想もしなかった激戦を生むことになる。スターリンは赤軍兵士に「一歩も下がるな!」との命令を下し、部隊の後方に撤退してきた兵士を射殺する督戦隊を配置。この督戦隊により射殺された赤軍兵士は1万3000人に及んだ。
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00:52:13
-
00:58:20
]
367秒
詳細
スターリングラードでの戦闘開始から1ヶ月後、ドイツ軍は街の80%以上を占領することに成功。「モスクワへの物資供給を遮断する」という当初の目的を達成したものの、ヒトラーはこれに納得せずスターリングラードの完全占領を命じた。この軍事的合理性を欠いた命令に対し、ドイツ第6軍の司令官であったフリードリヒ・パウルスは不信感を抱くようになる。1942年11月、ソ連軍の反攻によりドイツ軍将兵33万人が包囲されると、パウルスは貴重な将兵を脱出させるためにヒトラーへ撤退許可を求めた。しかし、彼に下されたのは実情を無視した死守命令。雪の中で包囲された兵士たちは飢えと寒さにより次々と倒れ、包囲から2ヶ月後の1943年1月31日にパウルスは無断で降伏。この決断により9万1000人のドイツ兵が捕虜として強制収容所へと送られたが、戦後まで生き延びたのはわずか6000人だけだった。
スターリングラードでの戦闘開始から1ヶ月後、ドイツ軍は街の80%以上を占領することに成功。「モスクワへの物資供給を遮断する」という当初の目的を達成したものの、ヒトラーはこれに納得せずスターリングラードの完全占領を命じた。この軍事的合理性を欠いた命令に対し、ドイツ第6軍の司令官であったフリードリヒ・パウルスは不信感を抱くようになる。1942年11月、ソ連軍の反攻によりドイツ軍将兵33万人が包囲されると、パウルスは貴重な将兵を脱出させるためにヒトラーへ撤退許可を求めた。しかし、彼に下されたのは実情を無視した死守命令。雪の中で包囲された兵士たちは飢えと寒さにより次々と倒れ、包囲から2ヶ月後の1943年1月31日にパウルスは無断で降伏。この決断により9万1000人のドイツ兵が捕虜として強制収容所へと送られたが、戦後まで生き延びたのはわずか6000人だけだった。
[
00:58:20
-
01:05:45
]
445秒
詳細
1943年9月、ドイツの同盟国であるイタリアが連合国に降伏し、ドイツへと宣戦を布告したことでヒトラーはイタリア戦線に兵力を割かねばならなくなった。11月にはチャーチルとルーズベルト、スターリンがテヘラン会談を開催し、連合国によるドイツ攻撃が決定される。一方、独ソ戦の前線では撤退を続けていたドイツ軍が赤軍の追撃を妨害することを狙い、現地の建物を破壊する焦土作戦を実施していた。この焦土作戦により、ウクライナでは1000万人が住居を失ったという。この惨劇を目にした赤軍兵士たちは憎悪と復讐心に駆り立てられ、猛然とドイツ軍を追撃していく。「まわりは地獄そのものだ。だけど、まだ手も足もつながっている…」「人間がどうしてあんな地獄に生きられるのか?私には理解できない…」独ソ両軍の兵士でさえもそう嘆くような地獄の中で、独ソ戦はもはや通常の戦争ではなく、血を血で洗う殺し合いへと変貌していた。1945年5月2日、追撃を続ける赤軍は遂にベルリンを陥落させ、ドイツで350万人、ソ連で2700万人に及ぶ犠牲者を出した独ソ戦はようやく終結。ベルリンを陥落させた赤軍兵士の1人はその豊かな街並みを目にし、こう語っている。「こんな暮らしをしていた連中が、なぜロシア侵攻を望んだ?なぜ俺たちのところへ攻めてきたんだ?何が欲しかったんだ?」…。
1943年9月、ドイツの同盟国であるイタリアが連合国に降伏し、ドイツへと宣戦を布告したことでヒトラーはイタリア戦線に兵力を割かねばならなくなった。11月にはチャーチルとルーズベルト、スターリンがテヘラン会談を開催し、連合国によるドイツ攻撃が決定される。一方、独ソ戦の前線では撤退を続けていたドイツ軍が赤軍の追撃を妨害することを狙い、現地の建物を破壊する焦土作戦を実施していた。この焦土作戦により、ウクライナでは1000万人が住居を失ったという。この惨劇を目にした赤軍兵士たちは憎悪と復讐心に駆り立てられ、猛然とドイツ軍を追撃していく。「まわりは地獄そのものだ。だけど、まだ手も足もつながっている…」「人間がどうしてあんな地獄に生きられるのか?私には理解できない…」独ソ両軍の兵士でさえもそう嘆くような地獄の中で、独ソ戦はもはや通常の戦争ではなく、血を血で洗う殺し合いへと変貌していた。1945年5月2日、追撃を続ける赤軍は遂にベルリンを陥落させ、ドイツで350万人、ソ連で2700万人に及ぶ犠牲者を出した独ソ戦はようやく終結。ベルリンを陥落させた赤軍兵士の1人はその豊かな街並みを目にし、こう語っている。「こんな暮らしをしていた連中が、なぜロシア侵攻を望んだ?なぜ俺たちのところへ攻めてきたんだ?何が欲しかったんだ?」…。
[
01:05:45
-
01:09:15
]
210秒
詳細
独ソ戦の終結から28年目となる1973年5月、レオニード・ブレジネフは戦後のソ連指導者として初めて西ドイツを訪問する。会談ではかつて兵士として独ソ戦を戦った者たちが互いに握手を交わし、これをきっかけにドイツはロシアとの関係を強めていった。ウクライナ侵攻の2年前にはドイツが仲介者となり、ロシアとウクライナによる直接会談も行われた。しかし、この会談は物別れに終わり、ロシアはウクライナへの侵攻を開始。侵攻を続けるロシアの大地には今もなお、独ソ戦を戦った兵士たちの遺骨が眠っている…。
独ソ戦の終結から28年目となる1973年5月、レオニード・ブレジネフは戦後のソ連指導者として初めて西ドイツを訪問する。会談ではかつて兵士として独ソ戦を戦った者たちが互いに握手を交わし、これをきっかけにドイツはロシアとの関係を強めていった。ウクライナ侵攻の2年前にはドイツが仲介者となり、ロシアとウクライナによる直接会談も行われた。しかし、この会談は物別れに終わり、ロシアはウクライナへの侵攻を開始。侵攻を続けるロシアの大地には今もなお、独ソ戦を戦った兵士たちの遺骨が眠っている…。