番組詳細
TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20240402 > エピソード: 1307952
エピソード情報
放送局 | NHK総合大阪 |
---|---|
プログラム名 | 歴史探偵 |
エピソード名 | 誕生!「古都」京都 |
カテゴリ | 一般実用 |
放送時間 | 2024-04-02 23:50:00 〜 2024-04-03 00:35:00 |
WireActionデータ更新時刻 | 2024-04-03 00:50:56 |
コーナー・トピック・パラグラフ
(オープニング)
[corner=11274253]
今回は...
[topic=17197910]
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[
23:50:00
-
23:51:38
]
98秒
詳細
今回、破壊と再生を繰り返してきた京都を特集する。
今回、破壊と再生を繰り返してきた京都を特集する。
オープニング
[topic=17197911]
詳細
[
23:51:38
-
23:51:54
]
16秒
詳細
オープニング映像が流れた。
オープニング映像が流れた。
(歴史探偵)
[corner=11274254]
スタジオトーク
[topic=17197912]
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[
23:51:54
-
23:53:36
]
102秒
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京都では室町時代に応仁の乱、戦国時代にも戦乱があり、江戸時代末期には明治維新と、破壊と再生を繰り返してきたという。
京都では室町時代に応仁の乱、戦国時代にも戦乱があり、江戸時代末期には明治維新と、破壊と再生を繰り返してきたという。
誕生!「古都」京都
[topic=17197913]
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23:53:36
-
00:06:34
]
778秒
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幕末、京都御苑には大小140余りの公家、宮家の屋敷があった。公家が御所に参内する際に使った宜秋門の前には腰掛、檜垣茶屋があり、旅人らは公家たちの姿を目に収めた。特別な日、天皇が住まう御所に一般の人々も出入りできたという。京都の中心には多様な人々が行き交う、開けた街が存在していた。1864年、長州藩は御所を目指して攻め上り、会津、薩摩、桑名藩が迎え撃った。この時に発生した火災は京都の街を呑み込んでいき、当時の京都の中心部のほとんどが被災した。さらに大政奉還で都が東京となり、公家や武士、御所に関わる商人たちも京都を去った。明治維新の際、神社とお寺を明確に分ける法律が施行され、清水寺からは鳥居が撤去され、仏像などは寺へ移された。町中にも石仏が設置されていたが、京都府は早々に撤去するようお触れを出していた。
幕末、京都御苑には大小140余りの公家、宮家の屋敷があった。公家が御所に参内する際に使った宜秋門の前には腰掛、檜垣茶屋があり、旅人らは公家たちの姿を目に収めた。特別な日、天皇が住まう御所に一般の人々も出入りできたという。京都の中心には多様な人々が行き交う、開けた街が存在していた。1864年、長州藩は御所を目指して攻め上り、会津、薩摩、桑名藩が迎え撃った。この時に発生した火災は京都の街を呑み込んでいき、当時の京都の中心部のほとんどが被災した。さらに大政奉還で都が東京となり、公家や武士、御所に関わる商人たちも京都を去った。明治維新の際、神社とお寺を明確に分ける法律が施行され、清水寺からは鳥居が撤去され、仏像などは寺へ移された。町中にも石仏が設置されていたが、京都府は早々に撤去するようお触れを出していた。
スタジオトーク
[topic=17197914]
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00:06:34
-
00:08:57
]
143秒
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京都の伝統行事「送り火」について、明治6年に政府は「無意味で、子どもたちの文明開化を妨げる」などと指弾していた。明治政府は神道を国の宗教にしようとし、旧来の伝統や秩序の破壊を試みたといい、最たるものが仏教だった。佐藤二朗は「古い伝統、信仰がここまで邪魔者、無駄、無意味と言われた時代がほんの150年前の出来事だった」と驚いた。
京都の伝統行事「送り火」について、明治6年に政府は「無意味で、子どもたちの文明開化を妨げる」などと指弾していた。明治政府は神道を国の宗教にしようとし、旧来の伝統や秩序の破壊を試みたといい、最たるものが仏教だった。佐藤二朗は「古い伝統、信仰がここまで邪魔者、無駄、無意味と言われた時代がほんの150年前の出来事だった」と驚いた。
誕生!「古都」京都
[topic=17197915]
詳細
[
00:08:57
-
00:14:47
]
350秒
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1873年にウィーン万博が開催され、明治政府は初めて万博に参加。日本らしさを感じるものが展示され、殊に和風の庭園はロンドンに移築されるほど好評だったという。万博の総監督を務めたセンボルン氏からは「西洋の模倣に西洋人は振り向きもしない」などと言われ、明治政府の官僚で日本赤十字社の創始者でもある佐野常民は日本の美術工芸品に着目。使節団を率い、欧米各国を歴訪していた岩倉具視は各国の国家儀礼について情報を蒐集した。ロシアでは皇帝の戴冠式の際、かつての都だったモスクワで行っていたといい、岩倉は京都を特別な場所に位置づけようとした。
1873年にウィーン万博が開催され、明治政府は初めて万博に参加。日本らしさを感じるものが展示され、殊に和風の庭園はロンドンに移築されるほど好評だったという。万博の総監督を務めたセンボルン氏からは「西洋の模倣に西洋人は振り向きもしない」などと言われ、明治政府の官僚で日本赤十字社の創始者でもある佐野常民は日本の美術工芸品に着目。使節団を率い、欧米各国を歴訪していた岩倉具視は各国の国家儀礼について情報を蒐集した。ロシアでは皇帝の戴冠式の際、かつての都だったモスクワで行っていたといい、岩倉は京都を特別な場所に位置づけようとした。
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00:14:47
-
00:18:34
]
227秒
詳細
岩倉具視は倒幕派から狙われていた際、京都の人々に助けられたことがあった。東京に移住しても京都を再訪し、地元民を集めて宴会を開催した。また、明治維新によって衰退していく京都の現状を目の当たりにし、心を痛めたという。亡くなる前、岩倉は伝統文化の保存で日本が一等国であることを示し、多くの人を集めることで京都を復興させるという青写真を描いた。
岩倉具視は倒幕派から狙われていた際、京都の人々に助けられたことがあった。東京に移住しても京都を再訪し、地元民を集めて宴会を開催した。また、明治維新によって衰退していく京都の現状を目の当たりにし、心を痛めたという。亡くなる前、岩倉は伝統文化の保存で日本が一等国であることを示し、多くの人を集めることで京都を復興させるという青写真を描いた。
スタジオトーク
[topic=17197916]
詳細
[
00:18:34
-
00:21:57
]
203秒
詳細
高木博志氏は「近代国家には軍隊や議会、教育など普遍的な要素も必要だが、それぞれの国の歴史や伝統、神話も持っていなければならない」と話す。幕末から明治にかけて、貴重な文化財が二束三文で海外に売られたが、人々は「美術的価値がある」のだと気づき、明治10年代には伝統保存の機運が高まったことで、伝統美術を大切にしようという考えが生まれた。
高木博志氏は「近代国家には軍隊や議会、教育など普遍的な要素も必要だが、それぞれの国の歴史や伝統、神話も持っていなければならない」と話す。幕末から明治にかけて、貴重な文化財が二束三文で海外に売られたが、人々は「美術的価値がある」のだと気づき、明治10年代には伝統保存の機運が高まったことで、伝統美術を大切にしようという考えが生まれた。
誕生!「古都」京都
[topic=17197917]
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[
00:21:57
-
00:31:03
]
546秒
詳細
明治政府は近代産業の見本市を催し、多くの人を呼び込むシンボルとして平安神宮が創建されたという。正面にそびえる門は平安京の応天門を5/8サイズで再現したもの。大極殿は神社の拝殿し、多くの参拝客に来てもらうべきと提言したのは佐野常民だった。また、水力発電所を建設し、その電気を用いて路面電車が運行した。4ヶ月の会期中、のべ113万人が来場した。佐野常民は伝統美術、神社仏閣の保護と合わせて山林の修復、美しい自然の保存を重要視し、1897年、没収されていた山林の一部が清水寺に返還された。補助金を投じて多くの紅葉が植えられた。同年、古い建築物の修理にも補助がつく法律が施行された。そして、京都は大きく復興を遂げていった。
明治政府は近代産業の見本市を催し、多くの人を呼び込むシンボルとして平安神宮が創建されたという。正面にそびえる門は平安京の応天門を5/8サイズで再現したもの。大極殿は神社の拝殿し、多くの参拝客に来てもらうべきと提言したのは佐野常民だった。また、水力発電所を建設し、その電気を用いて路面電車が運行した。4ヶ月の会期中、のべ113万人が来場した。佐野常民は伝統美術、神社仏閣の保護と合わせて山林の修復、美しい自然の保存を重要視し、1897年、没収されていた山林の一部が清水寺に返還された。補助金を投じて多くの紅葉が植えられた。同年、古い建築物の修理にも補助がつく法律が施行された。そして、京都は大きく復興を遂げていった。
スタジオトーク
[topic=17197918]
詳細
[
00:31:03
-
00:34:45
]
222秒
詳細
1893年、シカゴ万博が開催された際、日本のパビリオンは平等院鳳凰堂をモチーフにしていた。欧米列強に対して、中国との差別化を図るべく、平安時代中期を打ち出したという。一方、欧米列強に対抗するためには日本の連帯が求められ、人々に日本人という意識を芽生えさせる必要があった。ただ、高木博志氏は「それは均質なイメージ、理想の押しつけを意味し、均質な文化を共有できない人々を排除する動きも近現代ではあった」と語った。
1893年、シカゴ万博が開催された際、日本のパビリオンは平等院鳳凰堂をモチーフにしていた。欧米列強に対して、中国との差別化を図るべく、平安時代中期を打ち出したという。一方、欧米列強に対抗するためには日本の連帯が求められ、人々に日本人という意識を芽生えさせる必要があった。ただ、高木博志氏は「それは均質なイメージ、理想の押しつけを意味し、均質な文化を共有できない人々を排除する動きも近現代ではあった」と語った。