番組詳細


TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20240131 > エピソード: 1293519

エピソード情報

放送局 NHK総合大阪
プログラム名 映像の世紀バタフライエフェクト
エピソード名 ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生
カテゴリ 教育教養
放送時間 2024-01-31 23:50:00 〜 2024-02-01 00:35:00
WireActionデータ更新時刻 2024-02-01 00:55:39

コーナー・トピック・パラグラフ


(オープニング) [corner=11130169]
今回は… [topic=16991412] 詳細
[ 23:50:00 - 23:52:35 ] 155秒 詳細
16年にわたりドイツを率いた宰相、アンゲラ・メルケル。壁に閉ざされた東ドイツで育った彼女は物理学者の職に就くも、先の見えない将来を悲観していた。同じく東ドイツで過ごしていた歌手、ニナ・ハーゲンは圧政の中で歌に自身の思いを秘めた。そして、画家を目指していたカトリン・ハッテンハウワーは自由のために立ち上がった。彼女たち3人の女性の勇気はやがて大きなうねりとなり、ベルリンの壁崩壊へと繋がっていく。今回はベルリンの壁と彼女たちの運命に迫る。
オープニング [topic=16991413] 詳細
[ 23:52:35 - 23:53:04 ] 29秒 詳細
オープニング映像。

(映像の世紀 バタフライエフェクト) [corner=11130170]
ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生 [topic=16991414] 詳細
[ 23:53:04 - 23:56:37 ] 213秒 詳細
1974年、東ドイツで生まれた大ヒット曲「カラーフィルムを忘れたのね」。カラーフィルムを忘れたボーイフレンドに全ての写真が白黒になってしまったと訴える女性の歌で、歌ったのは当時19歳のニナ・ハーゲンだった。東ドイツの灰色の世界を風刺したこの曲は東ドイツ市民の大きな共感を呼んだという。東ベルリンに生まれ育ったニナ・ハーゲンはベルリンの壁により市民の自由が奪われた世界で育ち、10代の頃から映画や音楽で活動する。しかし、その奔放な活動は当局から監視されていたという。当時の東ドイツでは秘密警察のシュタージによる市民の監視や密告が蔓延しており、その閉塞感を歌に込めたのだ。
[ 23:56:37 - 00:01:36 ] 299秒 詳細
この曲を繰り返し聞いていた市民の中には物理学を学ぶ女子学生、アンゲラ・メルケルもいた。メルケルは1954にハンブルクで生まれ、生後すぐに社会主義に傾倒した父とともに東側へと移住した。彼女はロシア語オリンピックで優勝を飾るなど優秀な子供であったが、彼女もまたシュタージからの監視されていると常に感じていたという。物理学を志したメルケルは科学アカデミーで研究者となるが、その生活は決して明るいものではなかった。当時のメルケルは目標がないまま研究を続けており、当時の同僚からは「魂を失った人間」と評されていた。一方、ニナは1976年に西ドイツへの亡命を成功させる。西側でパンクに出会ったニナは躍動し、祖国の民主化を求める曲を発表し続けていた。
[ 00:01:36 - 00:14:29 ] 773秒 詳細
1989年に建国40年を迎えた東ドイツでは盛大な式典が行われ、独裁体制を確立したエーリッヒ・ホーネッカーがゴルバチョフに社会主義の成功を喧伝したが、市民の抱える不満はもはや限界だった。この不満を真っ先に口にしたのがライプツィヒの大学生であったカトリン・ハッテンハウワーで、彼女は1989年の9月4日に仲間を率いて礼拝が終わったばかりのニコライ教会で旅行の自由を訴えるデモを行った。礼拝に集まっていた市民も彼女たちのデモに賛同したが、活動はすぐに秘密警察の知るところとなる。カトリンはデモを首謀した容疑者として自宅に軟禁され、彼女の主張は「危険思想」と断じられた。しかし、国外のニュースを通じてデモの様子は東ドイツ全土に放映され、瞬く間に各都市へと活動が広がっていく。「月曜デモ」と名付けられたその活動には市民7万人が参加し、もはや無視できないものとなっていた。そして、運命の日となる1989年11月9日。高まる市民の不満を鎮めるため、党中央委員会に旅行を自由化する政令案が提出された。同日6時に行われた政府の定例記者会見でこの政令が公表されることになり、担当者であったギュンター・シャボウスキーはこの政令の発行期日について「私の認識では直ちに、遅滞なく発行される」と説明した。予定では政令は翌日に翌日に発行される予定で、なおかつ出国にはビザが必要であったが、シャボウスキーはそれらを全て伝え忘れていたのだ。この会見の内容は直ちに報じられ、8時35分にはボルンホルムの検問所にニュースを見た市民が西ベルリンへ行こうと殺到する。数万人にも膨れ上がった市民の対処に苦慮した国境警察官は政府に指示を仰ぐが、実効性のある命令は下されないまま時間だけが過ぎていった。衝突の危険が高まる中、国境警察の指揮官であったハラルド・イエーガーは「もうたくさんだ、これからは自分で判断する」と決断。23時30分、ボルンホルム検問所のゲートは無条件で開放され、多くの市民が西側へと渡る。この検問所にはカトリンも居合わせ、ゲートを抜けた人の中にはサウナ帰りのメルケルの姿もあった。
[ 00:14:29 - 00:34:15 ] 1186秒 詳細
壁の崩壊から3日後、ニナ・ハーゲンは世界ツアーをキャンセルしてベルリンで壁の崩壊を祝うコンサートを開催する。壁の崩壊は人々の世界が激変させ、東ドイツでも自由な選挙が行われることになった。それから1月後、メルケルは政治家を志して小さな政党「民主主義の出発」の門を叩く。メルケルはこの政党で広報を担当し、冷静な対応力が評価されて東ドイツ政府の副報道官となる。1990年10月3日、統一を果たした東西ドイツでメルケルは国会議員となり、翌年1月には最年少で大臣に就任。コール首相に引き立てられたことや地味な服装を揶揄されることも多かったメルケルだが、92年には大臣としてニナ・ハーゲンと共にテレビ討論に参加する。初めて対面を果たした2人は若者の薬物について激論を展開し、メルケルはニナの自由な言動に笑みを浮かべることもあった。2005年になるとメルケルはCDUの党首として政権の座を争う選挙に挑む。僅差で勝利したCDUは社会民主党との連立を模索するが、与党の党首であったシュレーダーから「我が党が話し合いに応じると思っているのか?」と嘲笑される。しかし、メルケルはこれに対し毅然と反論。リーダーとしての差を見せつけたメルケルはドイツ史上最年少にして初の女性首相となり、民主主義の擁護者として世界の指導者と渡り合う。その中にはKGB職員としてベルリンの壁崩壊の現場に立ち会ったプーチン大統領もいた。2015年には欧州に押し寄せた中東からの難民を受け入れると発表。年に100万人の難民を受け入れたが、この決断には旧東ドイツの住民を中心に大きな批判が寄せられた。こうした中、メルケルを積極的に指示したのが画家となっていたカトリン・ハッテンハウワーだった。カトリンはメルケルに向けた公開書簡で「ヨーロッパを閉ざされた島にしてはならない」と激励し、かつて自らが掲げた「自由な人々による開かれた国」という言葉をメルケルに捧げた。かつて閉ざされた壁の中で育った彼女たちは世界の誰にも同じ思いをさせないという意思で団結していたのだ。こうして数々の功績を残したメルケルは16年の任期を終えて退任する際、式典で演奏される楽曲に異例のリクエストを寄せる。「この曲は私の青春のハイライトでした。いろんなことが私の体験と重なっているのです」。そう語る彼女を送り出したのは、かつての東ドイツに響いていたあの曲。ニナ・ハーゲンの「カラーフィルムを忘れたのね」だった。