番組詳細


TVメタ情報 > 番組一覧 > 日付: 20221102 > エピソード: 1189276

エピソード情報

放送局 NHK総合大阪
プログラム名 歴史探偵
エピソード名 「後鳥羽上皇と承久の乱」
カテゴリ 一般実用
放送時間 2022-11-02 22:00:00 〜 2022-11-02 22:45:00
WireActionデータ更新時刻 2022-11-03 01:21:16

コーナー・トピック・パラグラフ


(オープニング) [corner=10057193]
今夜は... [topic=15423301] 詳細
[ 22:00:00 - 22:01:38 ] 98秒 詳細
今回は「鎌倉殿の13人」に登場し、承久の乱を起こした後鳥羽上皇を調査。
オープニング [topic=15423302] 詳細
[ 22:01:38 - 22:01:53 ] 15秒 詳細
オープニング映像。

(歴史探偵) [corner=10057194]
スタジオトーク [topic=15423303] 詳細
[ 22:01:53 - 22:04:35 ] 162秒 詳細
国宝に指定されている後鳥羽上皇の書状のレプリカが用意され、佐藤二朗は書状に押された手形と比べてみると、かなりの高身長だったことが伺えた。剛腕にまつわる逸話もあるという。そんな後鳥羽上皇は祖父に後白河法皇を持ち、19歳の時に上皇として院政を始める。42歳の時、承久の乱を起こすも敗れ、配流した隠岐で60歳の生涯を閉じる。
稀代の天才 後鳥羽上皇 [topic=15423304] 詳細
[ 22:04:35 - 22:16:03 ] 688秒 詳細
承久の乱で敗れた後鳥羽上皇は隠岐へ島流しとなり、60歳で生涯を閉じた。猫のように見える石を愛用し、ふいごと刀を祠に収めていたという。上皇は刀鍛冶に情熱を注いだとされ、隠岐神社では名工たちがつくった刀が奉納されている。上皇は4歳のときに天皇へ即位するも、平家は皇位継承に欠かせない三種の神器を持ち去った。そして、神器は壇ノ浦の戦いで平家とともに海に沈み、神剣は消失した。上皇は約30年の月日が経過しても神剣を探させた記録がある。国土交通省の協力のもと、神剣が沈んだとおもわれる場所を調査。潮流は速く、現役の海女さん曰く、深さ20mに到達するのは難しい。加えて、海底の砂によって埋まってしまう可能性が高いという。
[ 22:16:03 - 22:18:06 ] 123秒 詳細
神剣を欠いたままでは正当な君主といえないのではないか、後鳥羽上皇はコンプレックスを抱いていたとされる。また、擡頭する武士に対抗するべく、全国から刀工を集めて毎月1人に刀を打たせる「御番鍛冶」を定めたとされる。
スタジオトーク [topic=15423305] 詳細
[ 22:18:06 - 22:21:41 ] 215秒 詳細
武士は朝廷によってコントロール下にあったが、鎌倉幕府により権力構造が変わり、源平合戦で三種の神器の1つ、草薙剣は消失した。そのなかで、後鳥羽上皇は刀鍛冶に意欲的で、親衛隊も発足させたという。上皇自らがつくったとされる太刀もあり、隠岐神社へ刀を奉納している刀匠の月山貞利氏は「不思議な後鳥羽上皇の力を入れられた刀と感じる」と話す。
稀代の天才 後鳥羽上皇 [topic=15423306] 詳細
[ 22:21:41 - 22:28:39 ] 418秒 詳細
現在の大阪・島本町に後鳥羽上皇は離宮をつくったといい、離宮近くの淀川では大きな龜が見つかっている。記録によると離宮近くに市場を整備し、メインストリートは馬場として使われたといいい、上皇自らが笠懸をしたという。さらに離宮周辺は御所や貴族の屋敷もあり、政務の拠点でもあった。豊田裕章氏は「武士を懐柔、籠絡しようとしたと考えられる」と話す。上皇は朝廷の伝統的な遊戯、蹴鞠の達人でもあり、簡素な衣服を着用させながら、革製の足袋を色分けするなどして参加者のランク付けをしていた。
スタジオトーク [topic=15423307] 詳細
[ 22:28:39 - 22:33:01 ] 262秒 詳細
後鳥羽上皇は離宮に有力御家人を招いて懐柔・籠絡し、源実朝とも親睦を深めた。実朝は離宮の庭園をまねた池を造ったとされ、何より、上皇は実朝の名付け親である。実朝はいかなる世になっても、上皇を裏切ることはありませんという和歌まで遺している。だが、1219年、上皇が40歳の時、実朝が暗殺され、大内裏も焼失してしまった。
後鳥羽上皇と承久の乱 [topic=15423308] 詳細
[ 22:33:01 - 22:41:28 ] 507秒 詳細
承久の乱の前年、後鳥羽上皇は滋賀・長浜市を訪れ、「十五壇法」を行ったという。権威のある15の寺が一斉に祈祷する儀式にあたる。源実朝の暗殺によって幕府と朝廷の関係は崩れ、幕府と御家人の間でも混乱を招き、大内裏は焼失した。上皇は1ヶ月ほど憔悴したとされ、再建を幕府に求めるも拒絶された。北条義時の追討に動き出し、上皇は京に滞在していた鎌倉の武士たちに官職を与えて味方に引き入れた。御家人たちの寝返りも呼びかけるなど策を講じるも、承久の乱で大敗。上皇は隠岐へ流された。鎌倉幕府は戦で活躍した武士に土地を与えるシステムを構築していて、御家人たちは官職といった名誉よりも実利主義だった。
スタジオトーク [topic=15423309] 詳細
[ 22:41:28 - 22:44:45 ] 197秒 詳細
河合敦氏は「後鳥羽上皇は鎌倉幕府打倒ではなく、北条義時の追討を命じ、京都にいた御家人たちは上皇側についた」などと説明。戦いの最中、屋敷に雷が落ちると、義時は滅亡の前兆かもしれないと戦慄したといい、上皇側が勝利した可能性もあったという。承久の乱の後、鎌倉幕府は機内、西日本まで手中に収めたとされる。